言も積もれば葉

長話したいときもある

箱庭と人形

1年あたり2~3作ほど拙い小説を書いているわけだけれど、お話を作るときに大きく2パターンあるなということを改めで実感したので、物語の駆動力に関して書いてみる。

 

物語を書くときの、2つの駆動力。

単純に言えば「お話を作ろう」と思ったときに、

・世界

・人物

の2つうち、どちらを主題にするかということ。

 

物語は人物という関数と世界という関数を掛け合わせ、演算したもののように今は考えている。要は、物語は人物が世界を変容させたり、反対に世界が人を変容させたりする様子が時系列に沿って描写されて成立している。もちろん、変容しない場合だって、時系列が入れ替わっている場合だってあるけれど。

ただ、物語を作ろうと思い立った殆どの場合、どちらかを先に思いつきそれを話題の中心に据えようとするだろう(ウンウン唸っている間にいつの間にか逆転していることだってきっとよくある話)。

 

世界の話をするならつまり、ある特異的な地理・気候あるいは社会システム、はたまた人間関係といった特定個人(=概ね主人公やその近しい人物)に作用する外的な環境を主眼においた描写や演出をするだろう。

そのとき、世界はそこに住む人々を翻弄し、慌てさせ、悩ませる。そのように作者は書くだろうし、読者は渦中の人々を観察することでその世界の法則や状態を理解するだろう。

反対に、個人つまりある人格あるいはそれに相当する主体的なモノが輝くようにそれについて細かく描写・演出する場合だってある。

このとき人々は意志を持って世界に働きかけ、世界を意志に沿うように変革せしめんとするだろう。

世界と人物は相互に作用し、変質する。その様子を物語はすくい上げる。ただ、どちらか一方がより強く作用する。

 

一番素晴らしい作品は素敵な世界観の下で生き生きと魅力的な人物を描き出す。そのような作品が読んでいて楽しい作品だ。

また、どちらか一方に主題が寄っているからと言って、もう一方が蔑ろにされているなんてことはない。殆どは世界に焦点が当たるターンと人物に焦点が当たるターンの両方往復しながら物語は進んでいく。ただ、物語全体を見渡したときに世界に人物が従属するときと、人物に世界が従属するときがあるというのが個人的な実感で、必ずどちらかのウェイトが重くなる。

 

例えば、時雨沢恵一キノの旅シリーズや神林長平オーバーロードの街や伊藤計劃の3作、飛浩隆のグラン・ヴァカンス、田中ロミオ人類は衰退しましたなどは世界にウェイトが寄っていると思う。

人物に寄っている作品としては神林長平戦闘妖精雪風シリーズや飛浩隆の零號琴、河野裕の階段等シリーズや、さよならの言い方なんて知らない。、森博嗣スカイ・クロラシリーズ等がぱっと思い浮かぶ。

 

拙作においても、特定のキャラクターを描きたいから書いた話とある世界観を書きたいから書いた話の両方がある。

最近は、読むのも書くのも世界が優先されることが多い気がしている。そして、最近好きなキャラクターが出来ていないことに気づいて愕然とするなどしている。

などと言う割に、書くのは二次創作ばかりなのだけれど。