言も積もれば葉

長話したいときもある

李禹煥の展示を見に行った話

国立新美術館李禹煥展を見てきた。とても面白かった。

 

と言って終わってしまっても良いのだが。もうちょっと書いてみた。

が見事にうわ言になった。自分の言語能力が無いことが恨めしい。

普段放置しているくせにどうして書いているのかと行ったら、李禹煥の展示がとても良かった(と自分は思うから)だ。

なにはともあれ、興味が湧いたらこの展示を見に行って欲しい。そして展示物との対話を楽しんで欲しい。

 

・経緯

特別美術に詳しいわけでもないのだが、なんとなく美術的なものに対しての興味というのがぼんやりとある状態にある。で、ツイッターで美術系のキュレーターアカウントをフォローしているんだけど、そこで李禹煥という人物とその作品を知った。で、これとは全く別のことなんだけど、花譜の不可解参(狂)にも当選していて、ちょうど(良い意味で)東京に行かざるを得ない状況下にあった。とにかく、李禹煥展の会期はちょうどライブの日を包含していたので、併せて観てきた。

 

李禹煥のこととか作品のこととか感想とか(後半はうわ言

李禹煥のプロフィールは省略する。出生や経歴の複雑さは語るに足るものだと思うけれど、調べてもらえばわかることだし、何よりその出生に感動した訳では無いからだ。

彼は「もの派」と呼ばれる、表現体系?時代性を持った一連の傾向を共有するグループ?、まぁとにかくそいういう緩やかなムーブメントのようなものに紐付けられており、制作活動だけでなくその理論的な根拠付けも行った人だ。なんでこんなにふんわりとしているのかというと、もの派という名前あるいはグループ分けがあとから付いたもので、「もの派」なる派閥を立ち上げてその旗のもとに活動を推し進めていたわけではないようだからだ。このふんわりした感じは、なんとなく思弁的実在論を彷彿とさせる。少なからず、重なる部分があるような気もする。直感的に。現状では、李禹煥以外のもの派の作品を見れていないため、ここで言うもの派は李禹煥の(しかも国立新美術館展で展示された)作品を指す。

 

何はともかく、李禹煥/もの派の作品がとても面白かったのだ。

 

細部を切り捨てた言い方をすると、李禹煥の作品はとてもミニマルだ。たとえば、風景というタイトルのカンヴァス一面に蛍光塗料が塗られただけのものであったり、関係項というタイトルの石がガラス板に置かれているだけ、あるいは下敷きになったガラス板に石を落としてガラス板にヒビが入った状態で展示されているだけだったり、する。絵画作品もカンヴァスに点が一つ打ってあるだけだったりする(タイトル:応答)。文字で読んでも何もわかるまいと思う。そしてその再生可能性の欠如が私の筆力不足であることも認める。が、李禹煥の作品はもう、どうしようもない。見てくれ。少なくとも画像として。殊、美術制作文字にすると、表現の対象が陳腐化することはままあることだと思うが殊更に李禹煥はその傾向が強いと信じている。見てくれ。

 

一面に一色の蛍光塗料を塗ったカンヴァスやら、ただガラス板においてある石やら、点やら、何がそんなに面白いのだと疑問だと思う。

ただこれが面白かったのだ。面白さがどこだったのか、なんとか書いてみようと思う。

 

もの派と呼ばれる傾向は、とにかくその作品として設置された設置物を見る/観る/鑑ることを求める。

とにかく鑑賞者は眺める。回り込んで360度から、上から覗き込んだり、しゃがんで下から見たり。上下左右、四方八方からひたすらに眺める。近くで石の肌理を見たり、遠くから全景を眺めてみたりする。何はともかく見る。観察するように見る。見た。

しばらくやっていると、この見る行為そのものが作品として、内部に吸収されたような気持ちになってくる。先回りして補足するが、いわゆる「写真を撮る人を撮った写真」のような形式で「作品を見る私という主体」がその作品の一部になるというものではない。

また、やや転倒したことを書いてしまうのだが、作品として設置されたものを見る/観察するという行為/体験こそが李禹煥の作品なのだと思う。そして、この行為は意識の中で循環参照的な、あるいは無限に螺旋的な循環を私の中に生じさせる。現代思想における差異を物質的に体感するとこうなるのではないか。

 

私が作品を見る。そして作品から無言のフィードバックを得る。そしてさらに見る。また無言のフィードバックが返される。私→作品→私→作品→私→……。

私が移動することで、私と作品の位置関係は刻一刻と変化し、それによって無限の新しいフィードバックが返される。別の言い方をしようとするならば時間の経過によって、物理的な位置と精神的な状態が(微小にでも)変化する時間関数としての私(t)と、鑑賞時間Δtでは変化しない定数としての扱える作品の差分として発生するフィードバックが無限に返ってくる。

 

さらに、絵画作品において顕著であるのが、カンヴァスの大部分の余白を飛び越えた先の外側へ向かう残響のような感覚。カンヴァスに打たれた巨大な点を震源地として、いま言語化困難な、視覚的なような第六感的なような、言いようのない響きのようなものを感じた。

自分と巨大な点の間の無限に変化する循環の途中でふとその点の外側に意識が向いたときに、その外側が異様に意識される瞬間がある。そのときにその、視覚-第六感的残響がカンヴァスを超えて、それがかけられた壁の上を滑っていくのが見えたように思えた。これらは決してカタルシスを与えるものではなく、むしろ驚愕だった。

そんなこんなで、モノはただそこに在るだけで他のモノに少なからぬ影響を及ぼすし、その影響は無条件に相互から発されるし、その及ぼし方は一つ一つ違っているし、相対する2者の間を超えてその外部空間にも容赦なく、無限遠に何かが波及していき、そしてそれは無限に変化しずれ続けていく。そういう感覚を圧倒的な強度と濃度で味わってきましたとさ。

 

あーなんかもう何も言えねぇ。これを表現する語彙がわからねぇ。見に行って驚いてくれ……。まじで、頼む……。

 

おしまい。