言も積もれば葉

長話したいときもある

成功と失敗。それと買い物のギャンブル性からの撤退戦術に対する書き散らし

最近、日記を書こうと試みているのだが恐ろしいことに今週は何も書けていない。

驚きとともに悲しみを背負いながら、それでもなんとか今日こうして書けること、書く気になったことを言祝ぐしか無い。

少なくとも、後悔によって行動を後押しするよりかは、できたことを言祝ぎ成功体験として積み重ねていったほうが精神に良い。

 

成功をデザインしたい

成功体験というと、なにやら100点満点となったことを指し示すようなきらいがあるが好みではない。自分にとっては単位取得できたくらいの意味であり、6割そこら取れていればとりあえず成功と言った風に考えている。Cだろうが可だろうがSだろうが優だろうが単位取得は単位取得である。

それはそれとして取りこぼした数十点分は、きちんと把握し、可能な限りフィードバックする。

評価基準をマルorバツの1項目だけにするとしんどい。避けたい。複数のマルバツ項目があるようにしたい。

 

どこまでをパッケージとするか。適度に成功体験として認められつつ、適切なフィードバックを得られるデザインが望ましい。

成功しつつも今後の成長/修正項目がある、というところがゲーム的には優秀と言えると思われる。

十分に評価可能でかつ、十分に今度に活かせるフィードバックを得られるパッケージのデザインは困難であろうが、それを諦めてしまえばある一つの決定的な行動が成功したか失敗したかだけを評価するだけになる。あまり進歩性がない。

一つの決定的な行動はそれまでの複数の補助的な行動によって成否が決定する。一連の行動、アルゴリズムを評価・修正すべきだということだ。

 

 

友人が買い物について考えていたので、自分も買い物について考えていたら全く別の論になった

 

初めてそのジャンルのものを買うとする。

はじめの一歩はもう何もわからないので失敗することまで織り込むしか無いとなる。

直感的な好みで一つを決定するしか無いだろう。あるいは使用シーンをなんとか想像して、手持ちの経験で最適解と思われるものを手触りとして持っておくしか無い。

決めるときにはその手触りにとにかく近いものを選択する。

しばらく使って良いならばそれで良い。どこが良かったか考えてそれをつかめるようにアルゴリズムを強化する。

なにか違うと思ったらそのフィードバックを次の決定に活かす。

おそらく、このような内部プロセスを自分は踏む、はずだ。これらがスキップされたときは、何らかの外力が別に働いていると思われる。オタクは押しグッズと突然の出会いに弱い。勝てない。

 

買い物のリスク・リターンとそれに失敗すること

失敗はしたくない。すると落ち込むし、金銭も失う。自分のセンスの無さをガン詰めしたくなる。

そういう事を避けたい。避けるには失敗まで織り込んだ上で支払えるコストしか使わないよう心がけるしか、失敗に対して強く落ち込まない方法はないのではないか。究極的には失敗する可能性(そして失敗によって落ち込んだり掛け金を失う可能性)さえもベットしているからこそハイリスク・ハイリターンは成立する。

特に売買においてローリスク・ハイリターンは殆どない、と信じている(だからこそ掘り出し物という言葉が成立し、掘り出し物につく貨幣価値はその絶対値に対する精神的価値相対的に低下するのではないか)。良いものは高いし、悪いものはまぁそれなりの価格だ。罠めいている点は、高いものが良いものでかつ好みであるとは限らないことだ。

極論すれば、失敗(負け)を許容できないならばベットしないほうが良い。そのような状況からは撤退するべきだ。現実世界においてカイジはおそらく真っ先に死ぬ。繰り返しだが、強く打って死ね!ができないないときはコストの支払いをすべきではないのではないかとさえ思う。

立ち直り不可能な敗北と敗北感からさえ逃れれば、プロトコルの修正でまた立ち向かえる。

 

買い物はもはや賭けなのではないか

自由市場経済において、リスク、コストの支払いによって得られるリターンは一定ではない。買い物はときに、もはや一種の賭けのようにさえ思える。

生活必需品であれば、特に量産品であればリターンの上下は少ない。望んだ通りの結果を得られる。その一方で、一定以上に高級な嗜好品についてはリターンは乱高下する。ときに当たりを引き、あるときは好みに合わない物が部屋の隅に転がることになる。嗜好品とはそういうものだからだ、と言うしか無い。嗜好品に対する評価は個々人によって変わる。なんなら時間経過によってさえ入手した品への評価は変わる。

嗜好品の選定・入手は賭け性が高くなる。上記の理由によって、嗜好品の良し悪しが属人的かつ時間的な変化があるためだ。

無論、下調べや経験の蓄積、勘の鋭さ(なんて属人的な項目!)によって一定のリターンを得るためのコストは下がる。選択肢を狭められる。

つまり、自分が望む、愛するに適した物品を最小の失敗で得られる可能性は上がる。つまり、自分にとってのハズレを引きにくくなる。

ただ、それは金銭というコストの代わりに別のコストを支払っているだけとも言える。調べることによって知識が付く。想像する、考えることによって無限大の選択肢を幾分か有限な量に、自分が処理できるかもしれない量に狭めることができる。

ところでこのとき、代わりに時間を使い、頭を使っている。費やしたコストの総量は果たして減ったのだろうか。電気自動車と火力発電所の関係のアナロジーではないか。

 

労力を注ぎ、使用する金銭が少なくなることを否定するものではない。

失敗するには失敗するなりのプロセスを踏んで間違った意思決定をしている。不完全なアルゴリズムで意思決定をしたために失敗したと考えたほうがまだ健康的だろう。なにせ、改良の余地がある。改良すれば良い。

何より、不可避な失敗は有り続ける。判断力は限界で、好みとは無限だからだ。

買い物において成功以外したくないという気持ちは自分にもある。しかし、特に嗜好品の買い物から失敗する可能性は排除できない。あまりに総合的で時間的に掌握困難な評価が最終的に下され得るものに対し、絶対の成功はない。未だに本を買うことでさえ失敗する。最近も失敗した。

失敗したくないからこそ人は調べ、一定のネタバレを踏み、他人(友人やキュレーター、インフルエンサーだろうか)の意見を取り入れ、自分の楽しみの一部を捨ててまで何かしらの決定をする。成功というものを得たいようにさえ見える。近視眼的な、ある一つの物事の単一的な成否という事項における成功という概念を蚕食している(したいと願っている)ようにみえるということだ。楽しめる限りにおいて、悲しみは悲しみとして味わってもよかろうと思う。あるいは、金銭の価値が金銭そのものの金額以上のものを帯びてきたということかもしれない。しらんけど。

 

買い物からの撤退戦術

ずいぶんと散らかした。

これは、買い物からの撤退戦術的な価値判断だ。脱構築できたのではないかとうぬぼれたが撤退戦術だった。

買い物、あるいはある一定の意思決定と金銭を支払う行為はもはや賭け事に等しいとさえ思える。

そうであるならば、賭けの勝ち負けだけで成否判断するのではなく、賭け行為そのものを楽しめたかを考えるようにしたほうが総合的に勝ったと思える可能性が上がるのではなかろうか。

勝てるように策を施し、予想するのはもちろん良い。可能な限り行うべきだと思う。しかし、それでも賭けに負けたとき、負けた事を笑っていられたほうが少なくとも精神には良い。

それが困難なベットからは引き上げることも選択肢に置くべきだ。

 

ところでこれを、人は買い物のガチャ性から逃れられないと換言するとなにやら絶望的な気分にならないだろうか。